*埼玉県庁 |
生沢クノ(いくさわ くの、1864- 1945、81歳)は、荻野吟子に続き、日本で2番目の女医になりました。
埼玉は近代女医誕生の地です。
独身を通し、草の根医療に尽くしたので「女赤ひげ」ともよばれます。
◇ ◆ ◇
13歳で女医をめざすために、単身で上京します。
18歳で医学校に入学します。
女人禁制のため、生沢クノは断髪、男装で、別室で修学させられました。
森鴎外は講師の1人でした。
23歳で女医2号となりました。
24歳の時に、川越で講演をします。
花柳界のナンバーワン久良吉(くらきち)ねえさんに懇願されて、
川越で婦人科医院を開業します。官医は横暴でした。
「女の病気は女医の手で」を実行します。
<※ 生沢クノは、久良吉(くらきち)ねえさんが用意した、今の初雁中学の裏手で診療活動をおこないます。久良吉(くらきち)は三味線、舞踊、鼓、太鼓、小唄、端唄、常磐津の名手でもありました。>
献身的な治療をおこない、「女赤ひげ」とよばれるようになります。
川越で10年間尽くしました。
川越を去って後は、郷里の深谷などで、「女赤ひげ」の生活を続けます。
生沢クノは、深谷生まれで深谷で土に帰りました。
生沢クノは、一生を埼玉のために捧げました。
荻野吟子
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