Wednesday, June 26, 2013

河越城代・大道寺政繁は、群馬県・松井田城主も兼帯

大道寺政繁。狩野興信(女浮世絵師)画。安中市学習の森にて。 2012/12
後北条の勢力図  (※)
大道寺政繁(だいどうじ まさしげ、1533- 1590、57歳没)は、河越城代(城主の代理)で、北条氏康・氏政・氏直の3代に仕えました。
「政」の字は氏政からもらったものです。

北条氏の主要な合戦で武功を挙げました。

坂戸市発展の基礎を築きました。

「河越」は江戸時代に「川越」となります。

蓮馨寺は、大道寺政繁の母・蓮馨大姉(れんけいだいし)が上尾市に創建したものを大道寺政繁が現在地に移したものです。

大道寺家は北条早雲以来の後北条氏の重臣です。
北条早雲(伊勢新九郎)に、伊勢時代から仕えていました。

1546年、政繁の祖父、父は、河越夜戦(かわごえよいくさ)で、上杉勢を敗北させました。
河越夜戦(かわごえよいくさ)は、日本3大夜戦のひとつです。

これにより太田道灌の築城より90年続いた上杉氏の河越城支配は終わりを告げました。
室町時代(1338- 1573)のことです。

大道寺氏は以来1590年まで3代40年間にわたり河越地域を支配します。

1582年(天正10)の本能寺の変ののち、後北条は関東北方支配を強化します。
大道寺政繁は河越城の城代を務めながら、松井田城(群馬県安中市)の城主を兼帯すろことを命じられます。

1590年は豊臣秀吉の小田原攻めの年でした。

大道寺政繁は、松井田城を守るも、前田利家、上杉景勝、真田昌幸に攻められ降伏しました。
同年、秀吉の命で自害しました。

北条びいきの徳川家康は、豊臣秀吉に懇願し、大道寺政繁の子供らを家康預かりの身としました。

大道寺政繁の長男は将軍・徳川秀忠に仕えることになります。


(※)北条5代
初代・早雲、2代・氏綱、3代・氏康、4代・氏政、5代・氏直

蓮馨寺物語
  1. 川越の蓮馨寺(れんけいじ)の創建は、室町時代
  2. 後北条って?
  3. 存貞、秀吉の朱印状が河越を戦禍から救う
  4. 蓮馨寺には2大藩の紋所が
  5. 蓮馨寺は18檀林の1  

(※)http://www.geocities.jp/woodone3831/c-1-3-4-11-siro-odawara.html

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