蓮馨寺案内
後北条から江戸までの歴史を物語る川越市民いこいの寺
NPO法人武蔵観研 会長 桑 原 政 則
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蓮馨寺(れんけいじ)は、24時間開放の川越市民いこいの寺で、界隈は川越の浅草とも称せられた。一方では、葵の紋所を許された格式ある檀林(僧侶養成大学)で、殿様も、旗、槍をたおし目礼してから門前を通った。本稿では、観光面にもスポットをあて、時計回りに、後北条から江戸までの歴史を物語る川越市民いこいの蓮馨寺めぐりをおこなう。
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室町時代に創建
後北条(小田原北条)は、1546年の河越夜戦(かわごえよいくさ)で上杉勢に勝利した。3年後の1549年に蓮馨寺が創建された。室町時代のことである(川越は江戸ばかりではない)。のちに後北条の川越城将・大道寺政繁が、蓮馨寺を現在地に移す。大道寺政繁の甥にあたる感誉存貞が開山。のちに存貞は大本山・増上寺法主(ほっす)に栄達。
壇林(だんりん=僧侶の大学) 【pic】
浄土宗壇林・蓮馨寺は、江戸期には関東十八檀林の一つで、幕府公認の僧侶養成機関として多くの学僧を育てる。壇林では3年1期、9期27年学ぶ。葵の紋所を許された格式ある寺で、殿様も、旗や槍をたおし目礼してから門前を通ったという。
インド門
蓮馨寺講堂の門。インド・サーンチー遺跡の記念の門を模したもので、聖なる場所への入り口を表わす。講堂は多目的ホール。
水舎(みずや)
1893年(明治26年)の川越大火で鐘つき堂と共に火災を免れる。水鉢の龍頭の彫り物。鶴亀、牡丹唐獅子、唐子(からこ)遊びの図など。
将監地蔵尊(しょうげんじぞうそん)
松平信綱の重臣、遊佐将監(ゆさ しょうげん)作の地蔵。奇跡を起こすとして信仰される。
蓮馨大姉の供養碑 墓域 【pic】
大道寺政繁の母・蓮馨大姉の供養碑が。蓮馨とは、(阿弥陀仏のいる極楽浄土の)蓮の香りのこと。蓮馨大姉が上尾市に蓮馨寺を建立し、大道寺政繁が現在地に移す。
墓域には、忠臣蔵の赤穂側を弁護した多門伝八郎(おかどでんぱちろう)の供養塔、居合道の祖・林崎勘助の墓も(確認中)。
呑龍堂 【pic】
蓮馨寺正面の祈願所が呑龍堂(どんりゅうどう)。呑龍上人は、社会事業の先駆者。子育て、安産に霊験。毎月8日は縁日。呑龍堂は祈願所で、本堂は隣の右側。
ミツウロコとアオイの紋所が並列 【pic】
後北条(小田原北条)のミツウロコと徳川の葵の紋所と、1寺に2大藩の紋所があるのは異例。
なぎなた 【pic】
呑龍堂のカモイの部分に。龍の彫り物のなぎなたが。龍は、水を吐き出し火災から守る。なぎなたは魔から守る。
おびんづる様
釈迦の弟子。「さわって なでると すぐなおる」と言われ、なでやすいように、堂の外に置かれる。別名、なで仏。喜多院にも。
福禄寿
川越七福神巡り第5札所の神。第4は成田山川越別院、第5は見立寺(けんりゅうじ)。
本堂
本尊は阿弥陀如来。秀吉の朱印状、徳川家康の書状や徳川歴代将軍の位牌も安置。『蓮馨寺日鑑』は解読中。
河越を戦禍から救った秀吉の朱印状
1590年、秀吉軍が後北条の領地・河越を攻撃せんとした時、蓮馨寺初代・存貞が豊臣秀吉に手紙をしたためる。秀吉からの「河越では今後一切、火付盗賊、戦乱はまかりならぬ」との朱印状が蓮馨寺に残る。朱印状により河越が戦禍を免れたといわれる。
『蓮馨寺日鑑』 【pic】
1714年から1866年までの150年間の公用の日記。幕府、増上寺、川越藩、門前町との関係の記録、祭礼、訴訟、嘆願の記録など。県指定文化財。解読中。いずれ川越史に新事実が。
客殿 【pic】
本堂の右隣、遠州流庭園が本堂と客殿との間に。庭園の眺望に配慮し、座敷は雪見障子。
だんご屋
「松山」。醤油だんご。90年の歴史。
和順会館
集会室としても。和順とは浄土宗の開祖・法然の追号で昭和天皇より。法然は朝廷より8つの大師号を受けている。
トイレ
境内に市営トイレのあるのは蓮馨寺、喜多院、成田山川越別院の有力寺院。
鐘つき堂(鐘楼)
約1.5メートルの銅鐘は市内最大。15時に関東十八檀林にちなんで18回の鐘が。川越市文化財。
太麺焼きそばの屋台
蓮馨寺は川越太麺焼きそばの発祥の地とも。
境内
かつては露店が並び、相撲やサーカスが繰り広げられる川越庶民の娯楽の拠点。今も川越まつりにはレトロなお化け屋敷や見世物小屋が。明治までの境内は、川越熊野神社、鶴川座を含む川越織物市場跡あたりまで。
川越熊野神社
中央通りをはさんだ蓮馨寺の斜め向かい。元々蓮馨寺境内であったが、神仏分離令により独立。かつては蓮馨寺の守り神。蓮馨寺の院号は「宝池院」で、かつて宝池(たからいけ)が。今では水源を一にする川越熊野神社の宝池にその名残が。
鶴川座
1890年建設の芝居小屋。首都圏に現存する唯一の木造芝居小屋。全国芝居小屋会議では、鶴川座保存の決議文を。元々蓮馨寺境内に。立門前(たつもんまえ)通りに住変。
連雀町と中央通り
蓮馨寺をとりまく地域。連雀とは「渡り雀たち」のこと。蓮馨寺に集まる行商人が背負うショイコが連雀に似ていることから。中央通りは、蓮馨寺前の通り。蓮馨寺境内の敷地の一部を昭和初期に県に上納し、中央通りに。
その他の関係寺社
見立寺(けんりゅうじ、元町2)、大蓮寺(だいれんじ、元町2)、西雲寺(さいうんじ、丸広前)。常楽寺(上戸194)には大道寺政繁の墓と供養塔が。
おわりに
・歴史は、調査の深化により、書き換えられる。解読中の『蓮馨寺日鑑』により川越史に新事実があらわれることを期待したい。。
・島原図書館、福井県の図書館にも川越に関する古文書がうずもれている(大圖口承)。
・江戸ばかりでなく、後北条などの要素もまだまだあるはず。
・川越の歴史、物語をさらに豊かにするためにも、小田原北條祭り、寄居北條祭りと連携して、「川越北條祭り」の催行はいかがなものか。
【お礼】
本稿は、粂原恒久先生(浄土宗壇林・蓮馨寺住職、大正大学講師)のお話を参考にしました。記して感謝します。文責は桑原政則にあります。
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【追】
1573年小田原落城ののちに、豊臣秀吉が徳川家康と蓮馨寺を訪れました。その後徳川家康は蓮馨寺を御膳所(台所)として3度使いました。<※ 龍神由美、AMF 2013>
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