2014年 @@@
スペイン、ポルトガルの帝国主義は、政治と宗教は不可分のもので、政治が宗教を包み込んでいました。
武田
植民地獲得競争
徳川家康が列強と国交をしなかったからこそ、日本の平和、独立が保たれました。
◇ ◆ ◇
1494年、教皇子午線を修正した植民地分界線。
1494年にスペインとポルトガルのあいだで締結された、植民地分界線(海外領土の分割)に関する協定。西経46度30分を境界線とし、そこから東で新たに発見された地はポルトガルに、西の地はスペインに権利が与えられることいなった。条約締結の地のトルデシリャスはスペインのバリャドリード県にある都市。これは、前年に出されたローマ教皇アレクサンドル6世の示した教皇子午線に不満なポルトガルが、スペインとの直接交渉を行い、さらに270レグア西に移動した新たに境界線を設けることをスペインに認めさせたものである。これは結果的に、南アメリカの東側に突出した部分(ブラジル)がポルトガル領に含まれることになった。
18世紀になるとブラジル奥地に金やダイヤモンドが発見されたため、ポルトガル人はさかんにトルデシリャス条約の境界線よりも西方に進出し、ブラジルの領土を内陸に拡大した結果、1750年にはこの条約は効力を失った。
その裏側
なお、トルデシリャス条約では東半球、つまりアジア方面については規定はなかったが、16世紀初めにポルトガルは東回りでモルッカ諸島まで到達したため、スペインは西回りでその地を目指し、マゼラン艦隊を派遣、その一部がモルッカに到着したため領国はみたび境界線を取り決める必要ができた。それが1529年にサラゴサ条約である。 → 植民地
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